「ヒュンケル!」
翌日の午前。ダイに呼び止められ、銀髪の剣士はびくりと身をすくめた。
「何で昨日、途中で帰っちゃったんだよ。あの後すっげー面白かったんだぜ!」
「あ、ああ。すまん」
「あれぇ?」
小さな違和感に、ダイは首を傾げた。
「ヒュンケル、何か感じ変わったんじゃない?」
「そっ…そうか?」
「うん。何ていうかな……雰囲気が」
まじまじと見つめてくるダイに、彼の兄弟子は慌てたように言った。
「お前も、ずいぶん背が伸びたな」
「あは!そうかな」
その一言にダイはぱっと顔を輝かせ、照れ臭げに自分の頭を撫でた。
「2年ぶりだもんね。そりゃお互い変わるか」
「ああ」
「今日の夜も宴会らしいから、今日こそ最後までいてよ!」
ダイは言い残すと、背が伸びたと言われたのがよほど嬉しかったのか、足取りも軽く去っていった。
「……チビなの気にしてたんだなぁ、あいつ」
小さく呟くと、ヒュンケル―――いや、モシャスでヒュンケルの姿を借りたポップは、そそくさとマァムの居室に向かった。
捕まったのが、人を疑うことを知らないダイでよかった。これが勘の鋭いレオナ辺りだったら、
呆気なくばれていたかもしれない。しかし、これだけそっくりに化けていても、雰囲気というのは違うものなのか。
案外マァムにも、あっさりと見破られてしまうかも……。
胸を掠めた弱気を、ポップはぶんぶんと首を振って追い払った。ばれたら、その時だ。あんな、出し抜くような真似を
されておいて、こっちが弱気になってどうする。俺には権利があるのだ。虚仮にされたぶん、やり返す権利が。
騙されたぶん、騙し返す権利が。
気持ちの整理がついたら、ヒュンケルか俺か、どちらかを選ぶと、マァムは言った。あれには、もしヒュンケルを
選んだのなら俺にもそれを伝えるという意味が、当然に含まれていたはずだ。大戦直後、マァムはヒュンケルではなく、
俺と一緒にダイ捜索の旅に出ることを選んだ。そのことで、俺がどれだけ喜んだか、何を期待したか、マァムにだって
分かっていたはずなのに。そんな俺をまるで嘲けるかのように、陰でヒュンケルと。
昨夜の光景を思い出し、ポップはざわりと身の毛がよだつのを感じた。あんなものを見せられて、黙っていられるか。
そっちがその気なら、俺もお前らを出し抜いてやる。
「マァム……俺だ」
こつこつとマァムの居室の扉を叩くと、ポップは恋敵の声音で彼女を呼んだ。
ポップは硬直した。マァムの返事を待って、扉の前で立っていた自分の体に―――ヒュンケルの形をした体に、部屋から飛び出してきた
マァムが突然抱きついたのだ。唐突に開け放たれた扉は、ポップの動揺を示すように、くわんくわんと揺れていた。
ふわりと鼻孔をくすぐる甘い香りと、腹筋の辺りに感じる柔らかな双丘の感触に、ポップは軽い眩暈を覚えた。
「……マァ…ム?」
マァムの肩に手を置き、ポップは更に驚くことになる。自分の顔を見上げてきたマァムの目から、大粒の涙が零れたのだ。
「よかった……帰ってきてくれた」
震える声でようやくそれだけ言うと、マァムは再びポップの胸に顔を埋め、泣き始めた。ようやく落ち着き始めたポップの胸に、
どす黒い嫉妬が頭をもたげる。今朝方、ヒュンケルは軽装で寝室を出て行った。至極簡単な身支度で、遠出するような格好ではなかった。
寝たふりをしながらではあるが、ポップはその様をきちんと見ていた。
ほんの数時間も離れてらんねぇ、ってか。ポップは内心で嘲笑すると、マァムの体を抱いたまま部屋に身を入れ、そのまま後ろ手で
鍵をかけた。
ひとしきり泣くと、マァムは照れたように笑い、ようやくポップの身を離した。そして、自らの涙ですっかり変色したポップの服(正確には、
ポップがヒュンケルの荷物から勝手に拝借した服)に驚き、大慌てで部屋のクローゼットを漁り始めた。
やだ、女物ばっかりと、困ったように言う声さえどこか浮かれていて、ポップの心を苛立たせた。
「これ、ちょっと小さいかもしれないけど」
顔を赤らめながら、マァムが何やらシャツを差し出す。受け取ってやると、「私、見ないから」と頼んでもないのに部屋の隅に
走っていった。おーお、可愛くなっちゃって。ポップは唇の端で笑うと、渡された服を傍の椅子に放って、マァムに歩み寄った。
少し、からかってやろう。
「マァム」
彼女の背に立ち、壁に手をつくと、マァムは傍目にも分かるほど緊張した。わざと耳元に口を寄せ、囁いてやる。
「何を恥じらう?昨日の今日だろう」
「そっ……そんな」
消え入るような声。それは昨夜、扉の隙間から聞いてしまった声とよく似ていた。
「俺に抱かれて、可愛い声で鳴いていた。あれは夢か?」
「違っ……」
肩を抱くと、それだけで、マァムは他愛無く言葉を続けられなくなってしまった。ポップの知っている強気なマァムとは、別人のようだ。
好きな男の前では、女は別人になるのだと、誰かが言っていた。まったく、笑わせる。あれだけ思わせぶりな態度をとっておきながら、
ヒュンケルの前ではこんな媚態を見せていたとは。沸々と込み上げる怒りにまかせ、ポップはマァムを抱きすくめた。
「ヒュン……ッ!」
「黙って」
黙って、俺に見せろ。ヒュンケルに見せたもの全部だ。ポップは、マァムを振り向かせるのももどかしく、彼女の唇を奪い、貪った。
口付けながら、ポップはマァムの服を半ば引き裂くように脱がせた。マァムは両手で軽く抗ったが、それはポップが簡単に
押さえ込めるほどの抵抗であった。武闘家の彼女のこと、戦士のヒュンケルならともかく、魔法使いのポップの腕力であれば、
本気で抗えば振り払えるはずである。満更でもないらしいマァムに、ポップは舌打ちをしたい思いだった。
太ももを覆う程度の短いスカートを残して裸になったマァムを、ベッドに横たえる。恥ずかしそうに頬を染め、視線をシーツに落とす
マァムの仕草は、ポップが今までに見たことがないほど艶やかで、愛らしかった。暗い喜びが、ポップの胸を占める。可愛い顔。
もっと見せてみろよ。ヒュンケルしか知らない顔を、俺に。
そうして、抱かれた後で。魔法を解いた俺の顔を見たときのマァムの顔が、ひどく楽しみだ。きっと、昨夜の俺とよく似てるだろう。
ひっそりと笑ってから、ポップは思い出した。そうだ。目的は、これだけではなかった。
「マァム……ポップにはもう話したのか」
「え?」
「お前の気持ちを」
正面から、マァムの顔を見据える。彼女の本音を、ほんのわずかでも見逃さないように。優しさだとか、仲間としての気遣いだとか、
そんなものはもう要らない。生殺しはもうたくさんだ。ヒュンケル相手なら、本当のことを話すだろう。そうして、俺の中で
まだわずかに息づいている愚かな期待に、とどめをさしてくれ。マァムの手首を握る両手に、知らず知らず力がこもった。
マァムは、ポップの視線から逃れるように目を逸らした。
「私……私、ポップが好きよ。本当に大好き。私が男の子なら、ポップのことダイと取り合ってたかもしれない」
何だよそれ。お前は女だろうが。だから俺はお前のこと、こんな、道化みたいな真似してでも抱きたいぐらい好きなんだろうが。
喉まで出た言葉を、ポップはぐっとこらえた。こんな状況下でさえもってまわった言い方をするマァムが、心底腹立たしかった。
まるで、ヒュンケルの皮をかぶっていてもお前はポップだと、見透かされているようで。
「本当にそうならよかったのに。私、ポップを傷つけたくない……失いたく、ない。だから」
「そんなことが聞きたいんじゃない」
声を荒げたポップに、マァムは驚いて身を震わせた。怯えた目で見上げられてなお、ポップは荒れ狂う感情を抑えることができなかった。
「お前は誰が好きなんだ?俺か、あいつか?」
激情にかられ、ポップは自身がヒュンケルの姿をしていることさえ忘れてマァムを問い詰めた。マァムは目に涙を溜め、やがて
目を閉じた。
「昨夜も言ったわ。どうして疑うの?信じてくれないの?」
昨夜。ポップの脳裏に、呪わしい記憶が甦った。そうだ、確かに言っていた。あいつに突き上げられながら、何度も何度も、ヒュンケルが
好きだと、愛していると。
「ヒュンケルが好きよ。男の人として好きなのはあなたよ。あなただけ」
追い討ちをかけるように、マァムは言った。我知らず、ポップは笑う。バイバイ、無様な初恋。命さえ投げ出した片思いの、これが結末。
―――優しくて残酷で、身勝手なお前への復讐の、これが始まり。
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