彼女はまた、泣いてしまった。俺はぐしゃぐしゃと髪を掻き乱しながら、膝の下まで頭を落ち込ませる。馬鹿野郎。ヤクザ者に怒鳴られて平気な 女子高生がいるか。三次関数が分からなくてもそれは分かれ。俺は拳骨で一発自分の頭をぶん殴ると、立ち上がって彼女に向かい、頭を下げた。
「すみま……」
「ごめんね」
なのに謝ったのは、彼女のほうだった。俺はきょとんとして、顔を上げる。ベッドの上で、膝を崩して正座している彼女は、不思議といやらしさを 感じさせず、むしろ凛としていて、俺も悪魔どもも押し黙って見惚れるしかなかった。
「私、いつもこうなんだ。鈍いっていうか……ドジだし。いつも何か空回りして、その気はなくても、人を怒らせちゃうの。 順も、多分私のそういうとこに嫌気が差して、私と距離置いたんだと思う」
彼女は頬をつたう涙を手の甲で拭き、次の涙をこらえるように、ぐっと息を詰めた。
そのとき、俺は何故だか無性に、桜なんとかを往復拳打したくなった。
「挙句に逆ギレして、榊くんにあんな酷いこと言って……意味分かんない、なんて。分かんないのは私が鈍いせいなのに。ごめんね」
「……え、あ……」
「ごめんなさい」

言い切って、彼女が泣き出す。俺は頭をフル回転させて彼女の言葉を飲み込んでいた。
鈍い。ドジ。逆ギレ―――分からねぇ。一体何のことだ。この子が一体何をしたってんだ?考えても考えても、彼女がこんなに自分を責めている 意味が、俺にはさっぱり分からなかった。
俺は今度は、こめかみに拳骨を食らわせた。また「分からない」ことに逃げようとしている自分を、踏み止まらせるために。バカだからって甘えるな。 分からないなら、今分かることだけでも、この子に伝えてやれ。
「う、梅村さんは……鈍くなんかないです。空回りもしてないし」
やっとの思いで、それだけ。当然彼女が泣き止むはずはないから、また言葉を探す。不思議と、次々に言うべきことが見つかった。彼女はこんな風に 自分を嫌うべき女の子じゃない。未だに三角形の合同も証明できない俺だが、これだけは簡単に証明できる。
「人の心、ちゃんと分かってます。じゃなきゃ俺、あんなに何度も、あなたに励まされたりしてません。俺もみんなも勝手だから、助けが 欲しいくせに意地張って、つっぱねたりもするけど……それは俺達のせいで、あなたは何も悪くありません」
しゃくりあげていた彼女の背中が、次第に凪いでいく。目を上げた彼女の顔は、もう泣いてはいなかった。そのことに勇気づけられ、 俺は一気に畳み掛けた。
「ほんとです!球技大会も追試も、夏期講習も避難訓練も、全部あなたがいてくれたから……シャープペンとか、『がんばろうね』とか、 そういうの一個一個……すげぇ、有り難くて、だから……それに俺、今日だって、一度も怒ってなんかいません」
「……じゃあ、何でバスで、急に黙っちゃったの?さっき怒鳴ったのは?どうして?」
―――どうして?
不意を衝かれて、俺は息を飲んだ。説得している間、ベッドに身を乗り出していたせいで、彼女の全てが、手を伸ばすまでもなく届くほど、 近くにあった。濡れたままこっちを見上げるリスみたいな眼も、泣き跡で上気した頬も、裸の肩も、剥き出しの腕も―――布きれ一枚に包まれただけの、 彼女の身体も。
そのとき、俺は悪魔の声を聞いたんじゃなく、悪魔になってたんだと思う。ほとんど無意識に、俺は彼女の唇を奪い、磨き上げた石みたいに白いその身体を 押し倒していた。

「んっ……う……!!」
驚いて声をあげる彼女の舌を、肉食獣の獰猛さで捕らえ、味わう。その感覚は、今までどんな女にしたキスとも違っていた。火傷しそうに熱くて、 舌が溶けそうなほど甘い。強いて言うなら、荒熱をとる前の、焼きたてのプリンに似ていた。
「……ん、ん……!!」
いくら貪っても足りなくて、唇を離せない。どういうわけか、いつもは痛い樵の攻撃さえ、何だか気持ち良い。スーパーマリオでいうと無敵に なった感じだ。俺は息をするのも忘れて、夢中でキスをしていた。
「さか、き、くん……」
正気に返れたのは、唇を離したとき、彼女が虚ろに呟いてくれたおかげだった。焦点を取り戻した目で見下ろせば、文字通り眼と鼻の先に、 梅村さんの顔がある。普段は二つに束ねてある髪が、シーツに広がって艶々と光り、ピンク色の可愛い唇もまた、キスの名残で濡れて光っ……キス?
「ファーーー!!!」
俺は生まれて初めて、後ずさりをした。それも、尻をつき、後ろについた手と投げ出した足で地面を漕ぐ、一番格好悪いやつだ。
「すいませんすいませんすいませんすいません!!!」
背中で壁に激突するや、俺は土下座で謝った。
「や、やだ、やめてよ榊くん」
「ほんとすいません!!もうしません!!死んでもしません!!」
ベッドに額をめりこませながら叫ぶ。だけど何度言っても、そんな言葉は無意味だった。俺は誓いを破ったのだ。 何てことだ。サルか、俺は。
「こうなるから、俺、恐かったんです」
「恐、い……?」
「その、バスで……梅村さんのシャツが透けてて、ブ、ブブブブブラが見えたり!タオル一枚だったり!そういうの見てたら、さっきみたいに、 見境なくなるっていうか、あの……俺サルです!すいません!」
叫びながら謝り倒し、更に深々と額をベッドにこすりつける。梅村さんは「サルって……」と呆れたように言うと、ゆっくりと身体を起こした。 女神のように優しい手が、俺の髪にそっと触れる。
「謝らないで。だって私……」
頼む。いくらあなたが優しくても、これだけは笑って許したりしないでくれ。下手すりゃ、ファーストキスだろう。殴るなり蹴るなり罵るなり 好きなようにして、俺の罪を償わせてくれ。

「嬉しかったし」
「え」
思いがけない言葉に、俺はきょとん顔で梅村さんを振り仰いだ。頬を染めて、もじもじと恥じらう姿が、いつにも増して可愛らしい。
「う、嬉しい……?」
「だって、私、あの……もう!全部言わせないでよ」
梅村さんは真っ赤になって、掌でベッドを叩くと、ぷいっと背中を向けた。
「榊くんだったらいいの!変なこと考えても、キス、しても……」
おい。おいおいおい。これはまさか。
今、俺の頭に電球を突き立てたら、七色に輝くだろう。蛍光灯でも多分いける。
「梅村さん。それって……」
「全部言わせないでって言ったでしょ!」
ばたばたと、彼女はベッドの上で拳を弾ませる。見えないが、顔は多分真っ赤だろう。何だ。何なんだこの可愛い生き物は。 俺はたまらなくなって彼女を抱き寄せ、ガキみたいにおっかなびっくり尋ねた。
「キ……キスまでっすか?それ以上は?」
彼女の肩がぴくんと上下し、ほとんど同時に、蚊の鳴くような返事が返ってきた。
「い、いいよ……いいけど!」
付け足す声だけがやけに厳しい。俺は「待て」をされた犬のように凍りつく。
「私、は、はは初めてだけど……いいかな」
『初めて』のところで完全に声のひっくり返った彼女の答えに、俺の全身はめでたく雪解けを迎えた。
ありがとう神様、仏様、運命をつかさどる全てよ。俺達、幸せになります。空から差す虹色の光にさんさんと照らされ、俺は 満面の笑みを浮かべた。

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