がくん、と身体が上下する。バスが停留所に止まったらしい。雨に濡れているせいもあるだろうが、薄汚れた感じのビル街だ。 この辺は小奇麗な住宅街だけだと思ってたが、ちょっと入り込むとこんなところもあるんだな。
わざとどうでもいいことを考えながら、やっと落ち着いてきた胸を抑え、深呼吸する。これだけ沈静化すれば、話しかけても 大丈夫だろう。あのブラ……いや、胸にさえ注意すれば、大丈夫、いける。自分を鼓舞するようにきっと目を上げ、右隣の 梅村さんを振り返る。わざとらしいぐらいの作り笑いと、「すいません、急にバス酔いしちゃって……」というさりげない 台詞で、フォローは完璧なはずだった。
しかし、俺の計画は打ち砕かれた。台詞とか笑い以前の問題だった。俺の隣席にはそのとき、猫の子一匹いなかったからだ。 いや、猫にいられても困るんだが。訳が分からず、きょろきょろと見回した先、窓の向こうに、雨の中をずんずんと歩く彼女がいた。 横殴りの雨のせいで、彼女の前髪は額に張り付いて伸び、目を覆ってしまっている。そのせいで、表情は分からない。ただ、 唇は真一文字に引き結ばれていた。
手と額と鼻で窓に張り付き、茫然とそれを見送る。いつの間に。まずいぞ、さよならも言えなかった。いや待て、梅村さんは ここで降りるのでいいのか?駅って言ってなかったか?駅って終点じゃなかったか?
再びがくん、とバスが揺れ、歩き去る彼女と反対に走り始めたとき、俺は天井を突き抜けるような勢いで手を挙げ、叫んだ。
「はいはいはい!降ります!降ろして下さい!」
「あー?駄目だよ、バスが同じ停留所に二回も三回も停まるわけねぇだろ」
かったるそうにバスの運転手が言ったこと、耳元で何かが切れるような音がしたこと。覚えているのはそこまでだ。

「梅村さん!」
怯える羊の目をした運転手を置き去りに、俺は梅村さんの背中を追いかけた。俺が声をかけた途端、何故か走り始めた彼女を、 夢中で追いかける。
駄目だ梅村さん。あんた間違えてる。そっちは駅じゃない!
意外とうっかりな彼女のおさげが、背中でひょこひょこと揺れている。距離を詰めるにつれ、その様子がはっきりと見えるようになり、 手に取れるほど近づき、ようやく俺は彼女の二の腕を掴んだ。
駄目っすよ、急いでる時ほど、進んでる道が正しいか確認しなきゃ。
学級委員らしい示唆に満ちた台詞が思いついたことに満足し、俺は口を開きかけた。しかし、その台詞は一文字も音になることは なかった。俺の手を振りほどき、きっと睨んできた彼女は、目を真っ赤に泣き腫らしていたからだ。
「あ……の?」
訳が分からず、かくんと首を傾げる。その間にも、梅村さんの目からはぼろぼろと涙が零れ、白い頬で雨と混じった。
「榊くんって、変」
やけにきっぱりと、彼女は言い放った。
土砂降りの雨に頭と肩とを殴られながら、俺はぽかんとその言葉を聞いていた。
「何考えてるのか全然分からない。にこにこしてたと思ったら、急に怒ったり、口もきいてくれなくなったり。全然……意味分からない」
言葉の最後に、彼女はうっと喉を詰め、嗚咽した。
しゃくり上げて泣く彼女を見るうち、新手の樵がまた、俺の胸を穿ち始める。これは俺にも分かる。罪悪感ってやつだ。どうしようもなく 非道なヤクザを、うっかり再起不能にしちまったとき、似たような感じを覚えた。今のと比べれば、屁みたいなものだったが。
あわあわ、と訳の分からない言葉を発しながら、俺はとりあえず、持っていた鞄で彼女を雨から庇った。俯いたまま泣き続ける彼女を 見ながら、必死で考える。俺が何をしたんだ?こんなに、泣かせるほどのことをしたのか?自分がバカなことをこんなに呪ったことはない。 90秒経っても、結局答えは見つからず、とりあえず屋根のあるところへと、彼女の肩を掴んで歩き始めた。
ついさっきの怒りようが嘘のように素直に、梅村さんは素直に従ってくれた。多分、泣くのに必死だからだ。手の下で、細い肩が不定期に 跳ね上がっている。そのたび、罪悪感は目の前の大雨を吸い込むかのように膨れ上がっていった。

喫茶店でも、と思っていたのに、立ち並ぶビルはどれも事務所や会社ばかりで、雨宿りできそうなスペースもない。どっか適当なところに 押し入って、中にいる奴を脅し上げて強引に休んでいこうか、とも思ったが、梅村さんを前にそれはできない。この間の肝試しでバレかけた身元が、 本格的に割れてしまう。梅村さんが俯いて泣いているのをいいことに、俺はぎらぎらとガンをつけながら、客商売の店を探した。
そして一応、見つけた。見つけたが。これはありか?ありなのか?俺は雨を受けながら、白目を剥くまでその「店」の看板を凝視した。
看板には、これ以上ないほどくねくねと曲がった字で、「ホテル・ヴィーナス(はぁと)」とあった。
だけどまぁ、考えようだ。ラブホテルなら、タオルはある。着替えるスペースもある。俺さえ気をしっかり持てば、何も困ることはない。 嫌がる女の子を無理矢理組み敷くほど、俺は落ちぶれてはいない。
腹を括ると、俺は彼女の肩をぐっと抱き、「ホテル・ヴィーナス」へと足を踏み入れた。

高校生は駄目、と言い掛けた受付のおっさんをメンチ切って黙らせ、薄暗いエレベーターに乗った。梅村さんはようやく顔を上げ、 不思議そうに辺りを見回す。
「ここ……?」
「あ、ホテルっす」
ぎょっとして目を剥く彼女に、俺は慌てて弁解した。
「いや、変な意味じゃなく、雨がやむまでと思って。その……誓います!絶対に、命賭けて、俺は指一本あなたに触りません!」
右手を高々と掲げて宣誓する俺を、彼女は呆気に取られたように見上げた。それから「そう」と呟き、まただんまりを決め込んだ。 ほっと息をついた途端、エレベーターはがくんと揺れ、目的の階に停止した。今日はよく、ガクンとする日だ。

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