「厄日だぜチクショウ」
真昼とは思えない真っ黒い空を、バスの窓越しに見上げ、俺は小声で呟いた。
雷様の野郎、俺がバス下校する日を狙って夕立かますとは、いい度胸してやがる。
街で見かけたら、空気読むことの大事さを拳で教えてやるからな、覚えとけ。
子どもの頃にお笑い番組で見た、全身色物タイツにアフロ頭の雷様をぼこぼこにするのを
想像すると、ほんの少しむかつきが納まった。
いや、待てよ。むかつくならまず、迎えの車を出せなかった和と黒井だ。何でも、
和が突然モウチョウとかいう病気でぶっ倒れて、一緒にいた黒井が救急車を呼び、
そのまま付き添って病院に行っちまったらしい。しかも、救急車に乗ってる間に車のキーを
落っことしたとか。
組から連絡を受けたとき、晴れてるからまぁいいか、と安請け合いした俺もバカだったかも
しれない。俺が学校の昇降口を出た途端、青かった空が嘘みたいに黒々と曇っていき、校門に
辿りつく前に土砂降りになっていた。歩いて数分のバス停に着くまでに、このざまだ。バスに
駆け込んでもう5分にもなるのに、未だに髪の先から雨が滴っている。
モウチョウぐれぇ気合で治しやがれ、馬鹿野郎。
坊主頭の舎弟のにやけ顔を思い出しながら、俺は窓にぐしょ濡れの頭を押し付け、ぎりぎりと
歯を食いしばった。
「榊くん?」
へっ、と振り返ったとき、俺はどんな顔をしてたんだろう。少なくとも、外を睨んでたときの
メンチ顔ではなかったらしい。彼女―――梅村さんは少しも怯えず、いつも通り、天使のような笑顔でそこに
立っていたからだ。彼女も雨に濡れたらしく、二つに束ねた髪の先から、ぱたぱたと滴が垂れている。
「バスで会うの初めてだね。隣、いい?」
「どっ……どうぞどうぞ!」
俺は隣の椅子に放置していた鞄を光速で回収し、席を空けた。鞄の下に隠した胸で、少し以前から俺を悩ませている、
あの痛みが荒れ狂っている。養護の先生によると、これは樵の仕業らしい。
―――やめろ、樵……この距離じゃ、梅村さんに聞こえるだろうが!
心の中で怒鳴ったが、樵はまったくの無視を決め込んでいる。薄く触れた彼女の腕、シャツから覗く白い二の腕、
雨に濡れたせいかいつもより強く香るシャンプーの匂い、そんな何でもないはずのものが五感を刺激するたび、
樵は狂ったように激しく、俺の胸に斧を突き立てた。
「はうっ……!」
「どうかした?」
「い、いえ、何でもないです!あるわけないです!」
「そう」
にこっ、と彼女はまたしても清らかに笑う。樵は、今度は激しく斧を上下させるのをやめ、深く抉ることにしたらしい。
さっきのが荒波だとしたら、今度のは津波だ。飲み込まれそうになるのを懸命にこらえ、俺は正面から梅村さんに
向き合った。
ガキの頃、喧嘩に負けたとき、親父が俺にアドバイスをくれた。恐ろしい相手にほど、正面から立ち向かえ。
こそこそしたら、その瞬間に負けると思え。
何だか知らないが、この子はある種、めちゃくちゃ「恐ろしい」。気ぃ抜いたら、根こそぎ持っていかれる。
俺は全身全霊をかけて彼女と目を合わせ、自然な会話を試みた。
「梅村さんは、いつもバスですか?」
「うん。駅までバスで、そこから電車。榊くんは、いつもは歩き?」
「いや、リムジ……はい、あの、無理強いされて、遠いんですけど、歩いてます」
「この雨じゃ、歩くの無理だよね」
いつの間にか走り出していたバスに揺られ、俺は思いのほか普通に彼女と話せていた。彼女のタオルを借りて
頭と顔を拭く、という離れ業もこなした。
何だ。簡単じゃねぇか。
姿の見えない樵をあざ笑いながら、俺は勝ち誇った。それがいけなかったのかもしれない。
「きゃっ!」
不意打ちのように、バスは乱暴に左折し、右隣に座っていた彼女の身体が、大きく傾いた。
はにゃ?と思ったときはもう、遅かった。俺の二の腕に、彼女の身体が―――いやぶっちゃけ胸が、ぺっちょりと
張り付いたのだ。樵の反応は早かった。
―――ぐわあぁぁぁ!!
その柔らかな感触に、俺の全身は一瞬にしてビッグウェーブに攫われた。
―――樵いぃぃ!!殺す気か!!!
溺れながら樵にメンチを切るも、例によって奴は聞いてない。それどころか、多分にやにや笑っている。でなければ、
あんなことは起きないはずだ。
「ごめんね、榊くん……」
「いやいや、大丈夫っす、よ……」
ちょっと語尾が怪しくなりながらも、懸命に平静を装う俺の目に、とんでもないものが飛び込んできたのだ。
上目遣いで申し訳なさそうに俺を見上げている彼女の、胸。ろくに照明のないバスのせいで分からなかったが、間近で
見たら、お前。こら、樵。
シャツ丸透けじゃねぇかよ。ブラがピンク色じゃねぇかよ。目を凝らしたら谷、谷、谷間……!!
―――ノオォォォーー!!
俺は膝ごと180度旋回し、彼女から身体を背けた。
落ち着け。落ち着け、俺。何がブラだ、谷間だ。女の身体なんか、飽きるほど見てるじゃねぇか。それも、抱いたら一晩で
何十万とかかるような、極上の女の身体を。なのに何でこんな、普通の、素人の、女子高生の胸なんかで、こんな動揺
してんだ。どういうことだ。これも、樵のなせる業なのか。
「ごめん、ごめんね、榊くん。私、うっかりして、気に障ったよね、ごめん」
彼女が何か言っている。しかし、とてもじゃないが向き直ることなんかできない。またあれを見たら、俺は発狂しかねない。
高校を卒業する前に、豚箱入りになりかねないのだ。
「ごめん……」
俺はとにかく樵を静めるのに必死で、消え入りそうな彼女の声さえ、耳に入らなかった。
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