ベンガーナ王国の顔を潰さぬよう、生まれた子は姫と姫の夫との子どもと万人に信じられねばならない。 そのため夫には、声と背格好がレオナによく似た娼婦を暗い寝室で抱かせ、レオナを抱いたものと思わせる。 その娼婦は、事が済んだらどうなるのかとヒュンケルが問うと、バダックは顔を歪めた。
不都合のない限り、テラン辺りに隠匿するつもりだと答えながら。
不都合、つまり女の口が軽いだとか、女が移住を拒むなどの事情が出てきた場合、 女は殺されるのだろうと、その表情から容易に推察することが出来た。
決行の日、レオナの寝室の前で、ヒュンケルは逡巡した。目の前の扉をくぐれば、このおぞましい 計画に加担することになる。仲間、殊に同じ選択を迫られて違う道を選んだポップは、恐らく 自分を軽蔑するだろう。
―――見損なったよこの大馬鹿野郎。いつもいつも心配ばっかりかけやがるが、肝心なところじゃ 道を誤らねぇ奴だって、信じてた俺も相当馬鹿だけどな。てめぇ、ダイにどうやって顔向けするつもりだよ。
ヒュンケルは固く目を閉ざした。ダイ。そうだ、今すぐにでも、あの弟弟子が帰って来てくれたなら。 レオナは喜んで、ダイとの間に子をなすだろう。ベンガーナは面白くないだろうが、大魔王を成敗した勇者に 手向かうほど不遜ではなかろう。こんな姦計など、何の役にも立たなくなる。
しかし、ヒュンケル達も察し始めていた。ダイはもはや、自分達人間には手の届きようのないほど遠くにいる。 それは天界か魔界か、彼岸か。いずれにせよ、レオナの身が国民の憎悪に晒されぬうちに戻ってくることは、 極めて望みが薄い。
自分に見ていられるか。誰よりも人を統べるにふさわしいあの女性が、いつか生涯を孤独に終えるまで、人々に 忌み嫌われるのを。
―――いつか、恐らくはあの世で。好きなだけ俺を殴れ、ダイ。
ヒュンケルは、扉に手をかけた。彼を愛しているかもしれないと言ってくれた、桃色の髪の天使を思うことは、 一度もなかった。一瞬でも彼女のことを考えたら、この任務を遂行することはできないような気がした。

「誰?」
強張った声が、広大な寝室の奥から響いた。天蓋に覆われた下の寝台で、華奢な女性の影が警戒を強めるのが、暗がりにも 分かった。夫と勘違いしているのだろう。
「……ヒュンケル?」
「お久しぶりです、女王陛下」
しかし、彼女らしい勘の良さで、レオナはすぐにかつての戦友を見抜いた。信頼からか懐かしさからか、レオナの顔には 明るい笑みがこぼれた。
「やーねぇ、公の場以外じゃ姫って呼んでって言ったでしょ。年食ったみたいだからやめてよ。 で、どうしたの、こんな時間に。もしかして、何か分かったの?」
枕元の手燭に火をともし、レオナがヒュンケルのもとへ向かおうとするのを、ヒュンケルは手で制した。そのまま 彼のほうから寝台に近づき、恭しく跪く。
「申し訳ありません。残念ですが、目立った成果は……。ここに向かう前、ダイを見たという村人に行き当たりましたが、 証言に矛盾が多く、恐らくはまた賞金目当ての輩かと。今、ラーハルトが確認に向かっております」
「そう……」
レオナは深いため息をついた。少しでもダイに近づけるようにと、目撃証言に賞金をかけたのは、ダイの失踪の翌年。 もう5年前にもなる。はじめのうちは勇者への尊敬から、嘘の証言をする者などいなかったが、大戦の記憶が薄れるにつれ、 不逞の輩も複数出始めている。却って、捜索を混乱させるだけかもしれない。
「賞金は、もう打ち切ったほうがいいかもね……それで、今日はどうしたの?もしかして、とうとうエイミに つかまっちゃった?」
茶目っ気たっぷりに、レオナが笑う。王族らしからぬこの気安さは、大戦の頃とちっとも変わっていない。いつもなら 苦笑するところだろうが、今のヒュンケルにはそれさえできなかった。夜更けに寝室に押し入られてなお、レオナは 少しも警戒していない。それだけ、ヒュンケルを信頼しているのだろう。彼がこれからしようとしていることなど、 夢想さえせずに。
「バダック殿に呼び出されました。俺からも、姫に頼んで欲しいと」
「頼み?」
「……ご夫君との間に、お子を。姫の御後継ぎを望む声は、日に日に高まっております。無視し続ければ、反乱や 暴動の引き金になるかもしれません。出すぎたこととは承知していますが、どうか……」

ヒュンケルは跪いたまま、深々と頭を下げた。彼にとって、最後の望みだった。レオナがこの願いを受け入れてくれれば、 ヒュンケルは、この気高い姫を汚すことも、仲間を失うこともなくなる。
レオナは身じろぎもせずに聞いていたが、やがて細く、深いため息をついた。
「……私ね、ヒュンケル。廷臣たちに結婚を迫られたとき、本気で思ったの。逃げちゃおうかなって。昔、ダイくんの お母さんが、バランと駆け落ちして王家を捨てたみたいに。どこか森の奥で、誰にも知られずにダイくんのこと待って られないかなって。そうできたらどんなによかっただろう。
でもね、私には王族の義務があった。パプニカ王族の最後の一人としての義務が。だから結婚したわ。ダイ君とは 似ても似つかない男の妻になった。これ以上、私は子どもまで産まなきゃならないの?
人を作るのは血筋じゃないわ、生き方よ。夫と側妾との間に子どもができたら、私がその子を育てて、私の 治世の全てを教えるわ。それで十分、義務は果たせると思う」
レオナは強い意志を感じさせる瞳をきゅっと上げた。
「あなたやバダックが私を心配してくれるのは嬉しいけど……ごめんね。これ以上はもう、譲れないの」
ヒュンケルは直感した。バダックの言っていた通り、レオナは覚悟しているのだ。裏切り者の女王としてそしられようと、 ダイを待ち続けることを。王族としての素養は血筋ではなく生き方が決める。それは真実であり、レオナが一から育てた 子どもであれば、誰よりもパプニカ王にふさわしい後継者となるだろう。しかし、大衆がそれで納得するほど聡明であれば、 もとよりレオナの直子を望むことなどありはしない。
ヒュンケルの胸を絶望が占めた。望みは潰えた。もはや姫を救う道は、一つしか残されていない。
「わざわざありがとう。城の貴賓室を開けるから、今日はゆっくり休んで」
「……レオナ姫」
ヒュンケルは、ゆっくりと立ち上がった。信頼に満ちた笑顔が、銀髪の剣士を見上げる。
「俺はあなたを、この世界で最も人を統べるにふさわしい王族だと思っています。血に汚れたこの身を裁いて頂いた あの日から、ずっと。あなたにはいつまでも、その御身にふさわしく、人々に慕われる女王であってほしい」
「……」
夫との間に子をなせという説得の続きと思ったのだろう。レオナはその言葉に応じようと、軽く息をすいこむ。 が、次の瞬間、レオナの体は息をつめたまま硬直した。得体の知れない力が、彼女の五体の全てを拘束している。 指先一本動かすことが出来ない。何が起こったのか分からず、レオナは必死の思いで、傍らの剣士に目を向けた。 助けてと、声が出せたら叫んでいただろう。
そうしてヒュンケルを映したとき、レオナの瞳は、信じられないといったように歪んだ。ヒュンケルの掌が、 禍々しい闘気に満ちて、レオナに向けられている。暗黒闘気。大戦以来見ることのなかった、呪わしい 力の塊に、レオナの体は総毛だった。苦渋に満ちた紫の瞳を逸らし、ヒュンケルが呟く。
「ご無礼を」

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