ヒュンケルは瞠目した。
数奇な生い立ちゆえか、物事に動じることが少ない彼さえも驚愕させるほど、
目の前の老人の言葉は意外なものだった。普段は自らをこの国一の剣豪などと
豪語して憚らぬ一方、人外の者とさえこだわりなく接する豪胆な老人が、
哀れなほど憔悴した顔で、彼に懇願したのだった。
「……全ては、姫の御為じゃ。引き受けてはくれぬか?ヒュンケル」
頼みの綱は、もはやお前さん一人きりじゃと、バダックは肩を落とした。
二年前の春、レオナ姫はベンガーナの第三王子を花婿として迎えた。
ダイが失踪して2、3年のうちは、勇者と姫の再会と婚姻を望んでいた国民も、
やがては王家の断絶を案じるようになり、その声に押されて、政略結婚に
踏み切ったのだった。
もちろん、勇者と共に戦った仲間は皆、この結婚に反対した。
『いくら王族だって、何で惚れた男が生きてるか死んでるかも分かんねぇまま
結婚しなきゃならねぇんだよ!断れよ、姫さん。ダイは必ず帰ってくる、
俺達が連れて帰るから』
『そうよ、レオナ。貴女らしくないわ、そんなふうに自分を押し殺すなんて』
口々に言う彼らを制し、レオナは彼女らしい凛とした顔つきで言った。
『私、もう決めたの。結婚するわ、ダイ君を待つために』
『え……?』
『名目上だけでも結婚すれば、相手が一応の王位継承者になってくれる。
あとは側妾との間に子どもを作ってもらえば、その子が次の国王になるわ。
国民が望んでるのは王位継承者の存在であって、私が誰かと夫婦になることじゃないもの。
誰の奥さんになっても、私はダイ君を待ってる。誰にも、指一本触れさせやしない』
卑怯ね私と、年若い女王は小さく笑った。
しかし、事はレオナが思ったようには進まなかった。
レオナの花嫁姿の美しさは国民を熱狂させ、レオナの血を引く子どもを跡継ぎにと望む声は、
一段と強くなった。結婚から半年後、急逝したベンガーナ国王の跡を継いだ第一王子が
対外強硬派であり、パプニカ内でベンガーナを忌避する声が強まったことも、その声に
拍車をかけた。
それでもなお、レオナは白い結婚を貫き通した。夫となった第三王子は温厚な人柄で、
レオナのことをいたく気に入っていたが、相手が誰であれ、ダイ以外の男であれば、
レオナにとって違いはなかった。
その状態が2年続き、廷臣たちは焦り始めていた。もしもこのまま、レオナ直系の次期国王を
望む声と、レオナの信念とが平行線を辿り続けたら。レオナを慕う国民の思いが、裏切りを
感じることで憎悪の念に変わったら。密かにレオナに似た幼児を探し出し、レオナの子に
仕立てることも一時計画されたが、パプニカには王族の出産に貴族数十名が立ち会うという習慣が
残っている。なかにはベンガーナ王家との繋がりが濃いものもおり、全ての人間の口を封じる
ことは難しかった。
やがて、廷臣の一人が言った。
『母親がレオナ姫でさえあれば……父親は誰でもよいのではないか』
「俺に、ダイと姫を裏切れとおっしゃるのですか」
ヒュンケルは、努めて冷静に言った。廷臣団が跡継ぎ問題で苦慮しているとは聞いていたが、
まさかこんな、レオナの尊厳を踏みにじるような提案がなされていたとは。彼女に恩義の
あるヒュンケルにしてみれば、内心反吐を吐きたい思いだった。
バダックは嘆息した。
「ポップ君にも、同じ事を言われたよ。じゃがのう、お前さんも知っておろう?大衆は
無邪気で善良で、残酷じゃ。人望を失った王族の末路は、悲惨なものよ。
姫はそのことを覚悟しておられるのじゃろうが、わしは見ておれん」
姫を生まれたときから知っている老いた忠臣は、俯いて首を横に振った。室内を仄暗く
照らす燭火が、じりじりと呻いた。
「わしはこんなことは言いたくないが……廷臣のなかにはこんなことを言う者もおったよ。
『ヒュンケル殿は姫に恩義がある。姫を見捨てるような真似はなさるまい』と」
ヒュンケルは、雷に打たれたように立ち尽くした。あの日、この国を攻め滅ぼさんとした
自分にレオナが下した、公正にして寛大な裁きを、忘れたことなどない。
「今もダイ君を探し続けているお前さん達には悪いがの……わしはもう、姫はダイ君を
待ち続けてもお幸せにはなられぬと思っている。このままあの少年に操を立てて、
国民から忌み嫌われるよりは……血を分けた赤子とともに、王家として安泰に暮らすほうが、
お幸せなのではないかのう」
頼む、この通りと、まるで孫娘の幸せを願うかのように、バダックは手を合わせた。
姫と子をなすことのできる若い男で、女ながら勇者と共に大魔王と戦った姫を力ずくで
犯せる者。そして何より、生まれた子どもの父親であるという秘密を墓場まで持っていける者。
この条件に合う人間は恐らく、ポップとヒュンケルしかいない。ポップに拒絶され、バダック達
臣下にとってもはや、ヒュンケルだけが最後の望みなのだろう。
ヒュンケルは拳を壁に叩きつけた。無数の毒虫に胸を食い破られるようなその悪寒は、
かつての師に肉体をのっとられかけたときの感覚に似ていた。
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