「―――捕らえました」
骸の報告に、不死騎団長ヒュンケルはぴくりと指を震わせた。手中の杯に満たし
た酒の水面で、己の相貌が揺れる。
「ご苦労」
ただ一言、骸に告げると、ヒュンケルは玉座を後に、歩き始めた。虜囚のもとへ。
「く……っ」
マァムは後ろ手に縛られた両手をぎりぎりと動かした。しかし、脱走前よりも更にきつく結ばれた縄目は、びくともしない。
手首の痣が傷に変わろうかという頃、ようやくマァムは諦めた。
無理に逃げなくてもいい。今の自分は、ただ捕らわれていただけの昨日とは違う。マァムは、腰に提げた
道具袋の感触を確かめた。これさえあれば、ヒュンケルは過ちに気づいてくれる。
マァムは、ころりとその場に横になった。ひどく体が疲れている、地底魔城の狭
い隠し通路を這い回ったせいだろう。あんな酷い旅を共にしてくれたゴメちゃんは、無事でいるだろうか
。捕らえられるなり別々にされてしまって、居所さえ分からないが……。様々に考えを巡らせるうち
に、マァムはいつしか眠りに落ちていた。
ぎぃ、と扉の開く音に、マァムははっと目を開いた。雑魚ならば、隙をついて逃げ出してやろうと
相手をうかがって、絶望する。光を背に立っているのは、魔道に堕ちた兄弟子。
勇者ダイさえ剣のもとに打ち負かした戦いの天才である。
「脱走のうえに居眠りか。つくづく、肝の太い女だ」
吐き捨てるように、ヒュンケルは言った。
「私、ただの女じゃないの。こう見えても、あなたと同じアバンの使徒よ」
切り札を持っている余裕からか、マァムは自分でも驚くような売り言葉を口にしていた。
刺激してはまずかったかと後悔する間もなく、その場で襟首をつかみあげられる。
「女。あまり俺を怒らせるな。貴様はただの女ではない、俺の仇の弟子だ。今度
ふざけた口をきいたら、その場で殺すぞ」
兄弟子の怒りに満ちた顔を間近に見ながら、マァムは辺りをうかがう。どうやら、ヒュンケルは一人。
―――チャンスだ。
「ヒュンケル。見て欲しいものがあるの」
「何?」
マァムは言いながら、片膝をついているヒュンケルに向かって腰を捻り、道具袋を差し出した。
「さっき逃げてるときに見つけたの。宝箱にしまわれてたわ。あなたのお父さん
……地獄の騎士、バルトスの遺言状よ」
ヒュンケルの表情が、ほんの一瞬だけ凍りつく。
「……そんなちゃちな罠に、この俺が引っ掛かると思うのか」
「信じて。いいえ、信じなくてもいい。とにかく見てくれればいいの。お願い」
ヒュンケルは懇願するマァムを一瞥すると、懐から小刀を取り出した。
殺される?!肩をすくめ、固く目を閉じたマァムは、腰の道具袋を切られる感触に拍子抜けした。
ことりと床に落ちた小さな貝殻を拾い上げ、ヒュンケルは半信半疑の面持ちで貝殻に目を落とす。
「耳に当てて。聞こえるはずよ、お父さんの声が」
マァムはもはや安堵した表情で、ヒュンケルに告げた。その貝殻には、ヒュンケルの進むべき道を
照らす光明が封じ込まれている。ヒュンケルの父を殺したのは、師・アバンではなく、旧魔王軍を
統べていたハドラーであるという真実。それさえ分かれば、本来アバンの弟子であるヒュンケルが、
魔王軍に従う道理などないのだ。うまくすれば、ヒュンケル自身が、この牢獄からマァムを
救い出してくれる。
遺言を聞き終えて、ヒュンケルは震えていた。立ち上がり、背を向けている彼の表情は、両手を縛られ転がされている
マァムには知る由もないが、恐らく自らの犯した過ちの大きさに打ちひしがれているのだろう。マァムは
胸をかきむしられる思いで、それを見ていた。
「ヒュンケル……」
肩を抱いてやれない手の代わりに、マァムはできる限り優しくヒュンケルに呼びかけた。何故かは分からないが、
彼といると誰に対するよりも優しい気持ちになってしまう。その孤独を、荒みきった心を、ほんの少しでも癒して
やりたくなる。そんな気持ちに彼女自身戸惑いながらも、自由にならない身で、マァムはヒュンケルへとにじり寄った。
「く……くく………」
しかし、聞こえてきた彼の声に、マァムは身を凍らせた。笑っている?
「ヒュン……?」
「くっ……ハハハハハハ!!」
愕然とするマァムに、ヒュンケルは背を向けたまま哄笑した。笑いながら、手の中の貝殻を―――彼が愛してやまない
亡父の、唯一つのよすがを、その手の中で握りつぶした。砕け散った貝殻と、その欠片に傷つきぼたぼたと
鮮血を零すヒュンケルの手を、マァムは信じられない思いで見ていた。事実を受け入れられずに、発狂した?
そう疑わざるをえないほど、ヒュンケルの行動は常軌を逸していた。
しかし、振り返ったヒュンケルの表情は、怒りに燃えてはいたが、狂人のそれではない。どころか、その双眸に確固たる
憎しみをたぎらせている。
「さすがは、アバンの弟子だ。実に姑息な真似をする。よりにもよって、俺の父を騙るとはな」
「騙、る……?」
「俺の話を聞いて、ほんの少し頭を働かせれば、いくらでもアバンに都合の良いように書き換えることができる。
その法螺話を適当な道具にふきこんで、これが遺言だと差し出せば……騙せるとでも思ったか。愚か者が」
「ま、待ってよ!お父さんの声だったでしょう?私が、あなたのお父さんの声を知ってるわけないじゃない」
「父の、声だと?」
冷静さを保つためか、怒りを押さえ込むように低く絞り出されるヒュンケルの声が、より一層低まった。
「15年だ。父が死んで15年、俺は父の声を聞いていない。どんな声だったか、とうに忘れた。……そうだ、お前の父親
―――アバンの仲間の戦士も、お前が幼い頃に死んだそうだな。父の声を、お前は覚えているか?」
マァムは意表を突かれて息を飲んだ。確かにマァムは、ヒュンケルと同じく5歳前後で父・ロカを失っている。
そして、父の声を―――思い出せない。覚えてなどいない。
「もう一つ。この地底魔城は、俺が城主となる前からずっと、魔王軍によって管理されていた。万一その遺言が本物
であったとして、どうしてそんなものが今日に至るまで抹殺されずに済む?」
「そ、れは……」
隠し部屋にあったから。本当のことなのに、今のヒュンケルの前で口にすれば、全てが嘘に聞こえるような気がして、
マァムは反論が出来なかった。ヒュンケルが薄く笑って、マァムの喉元をつかみあげる。ぐぅっと呻き声をあげる
マァムにかまわず、ヒュンケルは彼女の細首を片手で締め上げた。背中を冷たい壁に押し付けられ、マァムは戦慄する。
ヒュンケルの表情は、憎しみに歪んでいる。このまま、殺されるかもしれない。先ほどヒュンケルが
懐刀を取り出したときとは比べ物にならない恐怖を感じ、マァムは血の凍る思いがした。
「く……っは……」
「安心しろ。ただでは殺さん。貴様は俺の父を穢した。相応の苦しみを受けてから死んでもらう」
呪いのようなヒュンケルの言葉を聞きながら、マァムは目の前が霞んでいくのを茫然と見ていた。
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