顔色が悪い。最後に会ったとき気付いてやれたのは、たったそれだけだった。俺がそう指摘すると、マァムは
彼女にしては無気力な様子で、「そうかしら」と頬に触れた。
「風邪かもしれん。近頃冷えるからな。暖かくして、よく休め」
能天気な俺の助言に、マァムはきょとんとして、それから何故だか嬉しそうに笑った。
「だって、あなたに身体のことを気遣われるなんて。アバンの使徒で一番の命知らずさんに」
理由を聞いて、苦笑した。確かに、俺の言えた義理ではない。
「バルトス」
別れ際、マァムは俺をそう呼び止めた。レオナ姫の命令で、大戦後、俺は偽名を名乗っている。罪を背負うのは結構だけど、
面倒な争い事は起こしてほしくないの、という姫に、俺は返すべき言葉を持たなかった。確かに、復興事業を手伝うにせよ、
ダイを捜索するにせよ、魔王軍時代とは別の名を名乗ったほうが、はるかに動きやすい。自己満足ではなく真に罪を償うべく、
俺を導いてくれた姫に、俺は心から感謝していた。
「何だ」
振り返ったとき、彼女の瞳はいつか見た、聖母の笑みを称えていた。
「元気で」
噛み含めるように、ただ一言。釣られて俺が頷くと、マァムは小走りで駆け去った。その後姿が、最後に見た彼女の
姿だった。
「何がアバンの使徒だ、救世主だ。バカな女だぜ、人殺しを庇って死んじまうんだからな」
顔中の肉を腫れ上がらせ、男はマァムを嘲笑った。抑えようのない憎悪に、再び拳を握り締める。男は俺の反応を
楽しむかのように、ますます侮蔑的な態度でけらけらと笑う。アルコールの臭気と血の臭いが、
湿った夜風に乗って鼻をついた。
「騙した覚えはねぇよ。俺は選ばせたんだ。お城でご活躍の将軍・バルトス様の正体をばらされるのと、俺の言いなりになるのと、
どっちがいいかってな。
あの女、何て言ったと思う。『彼はもう十分に苦しんだの。私をどうにかして、あなたが彼を許せるなら、好きにすればいいわ』だとよ。
苦しんだ?てめぇが何を苦しんだってんだ?正義の使徒様として、悪者を斬り倒すのがそんなに苦しかったか?てめぇの強さを
証明しながら、勇者の仲間と称えられるのが、そんなに苦しかったのかよ。
教えてやろうか。本当の苦しみっていうのはな、自分には何もできねぇ弱い人間の惨めさだよ。たとえばある日、骸骨の軍隊に攻め込まれて、
家も家族も仲間も―――何もかもを奪われながら、両腕をへし折られて抗うこともできない。身重の女房を目の前で殺されながら、
それを見ていることしかできない。そうしていつの間にか平和になったこの国で、剣を持つことさえできなくなった両腕をぶら下げながら、
見つけるんだ。あの日、骸骨どもを従えてた鎧の騎士と、同じ目をした銀髪の小僧が、お城のお偉方に混じって涼しい顔をしてやがるのをな。
すぐさま国中に触れ回ってやろうと思ったが、それじゃ面白くねぇ。手に入れたジョーカーをどう使うのが一番効果的か、俺は城に潜り込んで
嗅ぎ回った。一月と待たずに分かったぜ、てめぇの女。傷病兵の前じゃ看護婦じみた真似をして、愛想をふりまいていやがったくせに、
元魔王軍の軍団長に色目遣いやがって、狂女かバカかどっちかだろうと思ってたが―――バカだったらしいな、相当の。言いなりになる
ことを選んでおきながら、俺を怒らせやがった。苦しんだのは私のヒュンケルだけだとでも、思ってやがったのか?
ああ、思い出したら興奮してきたぜ。想像してみろよ。てめぇの女、腕の動かねぇ俺の代わりに本当に『何でも』やりやがった。
俺の一物をしゃぶるのも、俺に跨って腰を振るのも、一言も口答えせずにな。横になってるだけであの身体の全部で奉仕してくるんだ、
最高だったぜ。あの女も、最初こそ痛がってたが、近頃は満更でもなさそうだった。何、信じねぇのはてめぇの自由さ。
愛しい可愛い、清らかで純情なマァムが、こんな浮浪者の足であそこを踏みつけられてよがってたなんて、信じたかぁねぇよな。
ハハ、また殴られた、ハハハ、ハハ。もっと殴れ、本性見せてみろよ。何千人も殺した手だ、今更もう一人殺したって、
どうってことはねぇだろう?」
男を殴りつけた手が、震える。そうしながら俺は、同時にマァムを誑かした時の男の心情を悟っていた。
殺しても飽き足らないほどの、憎しみ。俺が憎いなら何故俺を殺さなかったと、内心で叫べば叫ぶほど、俺の心は男のそれと同化し、
灼け付くような痛みを深めていく。
夜風が雪を舞い上げ、男はふと、渇いた笑いを止めた。
「惜しいことしたぜ。たったの二ヶ月で、終いにしちまうなんてよ。本当はもっともっと、長いこといたぶってやるつもり
だった―――どうしてこんなに、早まったんだかな」
男は夢を見るように夜の闇を見つめ、やがて今までにない、はっきりとした表情を見せた。その眼は、かつてパプニカでは名の知れた剣士だったという、
この男の昔日を微かに偲ばせた。
「ああ、思い出した。いつもみたいに好きなだけ嬲った後で、俺は寝ちまったんだ。それから妙な感じがして目が覚めると、
あの女がすぐ傍に座ってやがった。哀れむような目で俺を見下ろしながらな。俺は腹が立って、鳩尾を蹴り上げながら
あの女を罵った。あいつにしちゃ珍しく泣いていやがったから、少しは気が晴れたが、それも束の間だった。泣いてたのは
痛かったからでも、惨めだったからでもねぇ。俺が可哀想だと、救えるなら救ってやりたいと、そう言って泣いたんだ。
『こんなことを続けて、一番辛いのはあなたよ。ヒュンケルが憎いのは、あなたがそれほど奥さんを愛していた
からでしょう?そのあなたが、こんな無意味なことをして、辛くないはずないじゃない』
怒りと混乱で、頭がどうかなりそうだった。騙されるな、この女は逃れようとしているだけだと、耳元で何かが
囁いた。
『私を酷い目に遭わせて、ヒュンケルを悲しませて―――あの人はもしかして、自分を責めて死ぬかもしれない。
あなたはそれで、本当に救われるの?』
『黙れ!!』
耳を塞げない手がもどかしかった。何か、この女を黙らせるものはないのか。街娼婦が客を引き込む路地裏だ、色んな物が
転がってる。その中に錆びた短刀を見つけて、俺はそれをあの女へ蹴って寄越した。
『俺を救いたいならてめぇが死ね。俺にさんざん汚されたその身体のまま、死体になってあの男に会ってこいよ。
奴が泣いて狂って、俺と同じ苦しみを味わえば、俺は救われるんだよ!!』
あの女は喚き散らす俺を、真っ直ぐに見返してきた。
『最後の命令だ。死ね。それで、野郎のことは忘れてやるよ』
『……本当ね』
短刀に目を落として、あの女は言った。どうせ芝居だろうと思った。手に取って、喉笛に短刀を押し当てる段に
なっても、まだそう信じてた。俺がもういいと、そこまでするなら許してやると言い出すのを待ってるんだろう。
実際、その言葉は喉元まで出掛けていた。だがそれを言っちまったら、女房がどうしようもなく遠いところまで
行っちまうような気がしていた。
あの女は、すっと息を吸っただけで、躊躇いもなく喉笛を掻っ切った。嘘だ、嘘だと、血が吹き上がってもまだ
俺は呟いていた。桃色の髪を振り乱して、あの女がのた打ち回ってる。あんな錆びた刀で、即死できるはずがない。
あの綺麗な顔中、真っ赤な血で濡れて、びゅうびゅう息をしてた。
気が付いたら俺は、助けを求めて叫び回ってた。
助けてくれ、死ぬ、死んじまう。女房を殺されたときと同じように、役立たずの腕を引きずりながら。周りから
返ってきた答えも同じだった。諦めな、もう助かりゃしねぇ。
虚ろに濁ったあの女の瞳と目が合って、俺が泣き叫んだ、そのときだ。あの女の瞳が、微かに光を取り戻して、それからゆっくり笑った。
とんでもなく苦しいはずなのに、あの女、笑ってたんだ。気が狂ったのかと思った―――そのほうが、ずっとよかった。
あの女、笑いながら、母親がガキに言い聞かせるみたく、こう言った。
『許してあげて。ヒュンケルを……あなたが、生きてることも』
言葉の最後に咳き込んで、それっきり、あの女は事切れた」
目に浮かぶようだった。マァムの苦しみも、その微笑みも。想像の中で、男の顔が俺の顔に変わり、俺はその場で
慟哭した。
「意味が、分からねぇよ。あとは死体をパプニカ城の前へ送りつけてやれば、全部終わるはずだったのに、何で俺は
逃げちまったんだろうな?急に命が惜しくなったのか?おかしいよな、逃げ切れるはずがねぇのに。人一人殺して、
こんな身体で、どうやって生きていけっていうんだよ。許すって何だ?」
雪が降る。純白の華は、石レンガに落ちるなり、融けて濁っていく。
「あれから思い出せねぇんだ、女房の顔。もう天国なんて行けねぇからかな?一番大事なもの失って、こんなに
悔やむぐらいなら―――人殺しなんか、しなきゃよかったのにな」
虚ろな表情のまま、男は涙を流す。同じ顔をした愚か者が二人、真冬の夜の風に斬りつけられていた。
end
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