マァムは夢を見ていた。ゆるゆると髪を弄う、優しい手。ぼやけた視界にもはっきりと映る、白銀の髪。 身体の痛みなどおきざりにして、マァムは手を伸ばした。
「ヒュン……ケル……」
か細い声で呼ぶ。
「……ル……ヒュンケル……」
幾度も繰り返し、ただ、彼の名前を。

乾いた音とともに、頬に痛みが走った。殴られたのだと、マァムはおぼろげに知覚する。
「気安く呼ぶな。何のつもりだ」
憎憎しげな声が、マァムに現実を思い出させる。けれど、名を呼んだのは本当だったらしい。どこまでが夢だったんだろう。 焦点の合わない目で、マァムは思案に逃避していた。しかしそれさえも束の間、ヒュンケルに根元から髪をつかまれ、 無理やりに身を起こされる。
そうして見た、ヒュンケルの顔は、夢を見る前と全く違って見えた。冷酷に見えた顔が余裕なく歪み、苛立ちを露にしている。
「言ったはずだ。今度ふざけた口をきいたら殺すと」
「……夢……を、見たの。あなたの夢を」
心の中で呟いたと思った言葉が口をつき、マァム自身驚いた。ヒュンケルもまた、意外だったのか言葉を失っている。 奇妙な沈黙に耐えかね、マァムは話を続けた。
「夢の中で、あなたに、髪を撫でられてた。すごく、優しくて……気が付いたら呼んでたの、あなたの名前を」
訥々と、マァムは真実を語っていた。何故そんなことを話しているのか、自分でも不思議だった。 殺すなら殺せと居直ってもいいときなのに。未だ醒めきらない意識のなか、マァムは幸せな夢に縋り続けていた。

「何かと思えば……お前、俺を誘っているのか」
かっと頬が染まるのを、マァムは知覚した。ほんの一言漏らしてしまったはかない想いさえ揶揄され、ようやく目が覚めた。 目の前の男が誰なのかを、マァムは改めて思い知った。
ヒュンケルはそんなマァムの反応さえ冷笑し、からかうように頬を撫でる。
「男を知ったばかりで、もうおねだりとはな。お前のように淫乱な女は初めて見た」
「勝手に決めないで!誰がそんなこと!」
手を縄で戒められていなかったら、確実に頬を張り倒していただろう。マァムは噛み付かんばかりの勢いでヒュンケルに くってかかった。
「図星を指されたからといっていきり立つな」
「バカ言わないでって……!」
叫んだまま、ぐらりと、マァムの身体が倒れる。足を払われ、手をつけないマァムは無様に床に転がった。 そのままのしかかられ、びくりと震える。生々しい陵辱の記憶が、身体の端々に甦り、マァムを怯えさせた。
「お前が知らなくても俺が知っている。お前の母は、アバンに与する僧侶でありながら仲間の男と通じ、戦線を離脱した、 恥知らずの売女だ。その娘のお前が、淫乱でないはずがない」
「……あなたに、母さんの何が分かるの」
震えながら、マァムはそれでも気丈に言った。嘲笑するヒュンケルの顔を、きっと睨みつける。
「私は、先生と戦った母さんを誇りに思ってる。あなたに侮辱されるいわれはないわ」
「そうか?では試してやろう。お前が母譲りの淫乱かどうか」
びっと法服を引き裂かれ、マァムはびくりと震えた。恥じらいより先に、恐怖が全身を駆ける。身体をこじ開けられ、 無残に純潔を散らされた記憶が、まざまざと甦った。

手を触れただけで身体を硬直させるマァムに、ヒュンケルは苦笑した。
「嫌われたものだな。これでは楽しめないだろう」
つと、ヒュンケルの手がマァムを見放す。このままで済むはずがないと悟りつつ、マァムはふっと脱力した。 恐怖を覚えた身体はひどく臆病で、単純だった。
それが証拠に。離れたと思われたヒュンケルが後ろに回り込めば、たちまち緊張を新たにする。背後から無理やり 身体を起こされ、マァムは堅く目を閉ざした。

手首のわずかな違和感の後、マァムはとんと背中を押された。倒れる。咄嗟に手をついてから、マァムは 目を見開いた。後ろ手に縛られていたはずの手が、前傾した身体を支えているのだ。
―――解放された。
すぐさま壁に飛びのき、ヒュンケルに向かって身構える。腕を組み、不敵に笑うヒュンケルから、その真意を 窺い知ることはできない。マァムの背を、冷たい汗がつたった。
「どうした。向かってこないのか?」
縄を切ったらしい懐剣を手の内で弄び、ヒュンケルは唆すように言葉を投げた。ついで、思いついたように 懐から何かを取り出す。銀の輪にまとめられた数個の金属の小片。その独特の金属音に、マァムは息を飲んだ。 鍵である。
「右から2つ目がこの牢の鍵だ。牢番は扉の外に骸骨兵が一匹、お前なら素手で倒せるだろう」
挑発的に、ヒュンケルは指の先で銀の輪を遊ばせた。誘うように、じゃらじゃらと鍵が鳴る。
マァムは、ごくりと唾を飲み下した。罠だと、分かっている。それでも、ほんの数歩先に自由をちらつかされて、 平静でいられるはずがない。共に戦うべき兄弟子に辱められ、殺されるという、喜劇のような悲劇から、 逃れられるかもしれないのだ。
「―――無論、まだ『足りない』なら無理にとは言わんが」
冷笑され、握り締めた拳に力が加わる。いちかばちか。挑みさえすれば、可能性はゼロではない。 マァムとて戦士である。男相手とはいえ、虚を衝くことができれば、勝機は十分にある。 マァムはじりじりと壁をつたい、ヒュンケルとの間合いを詰めた。そうして、ヒュンケルがふと視線を 逸らした瞬間、弾かれたように飛び出す。肩の上から繰り出した拳は、確実にヒュンケルの頬を 捕らえようとしていた。

はじめに感じたのは、脱力感。全身の神経を絶たれたような錯覚に、マァムは一瞬我を失った。 ついで襲ってきた捻じ切られるような痛みに、断末魔のような悲鳴が喉から駆け上る。 ヒュンケルを打ちのめしていたはずの拳は力なく垂れ、無様に宙を足掻いていた。 ぎりぎりと首を曲げられ、涙の浮かんだ目がヒュンケルを映す。向けられた掌から、どす黒い 闘気が迸っている。絶望が、激痛と共にマァムの全身を支配した。何故忘れていたのだろう。 ヒュンケルの恐ろしさが格闘と剣技のみに留まらないことを。
闘志に満ちていたマァムの表情が無残に崩れるのを見て、ヒュンケルは楽しげに笑った。
「闘気の使い手に、正面から素手で向かってくるとはな。貴様、アバンに何を教わった? もう少しましな攻撃をしてくるものと思っていたが、とんだ買い被りだったぞ」
「ぐ……う、あ………!」
中空で、マァムの身体は踊るように跳ねた。痛みを逃がすその仕草さえ、マァムの意思に よるものではない。痛みに気を失われてはつまらないと、ヒュンケルがマァムの身体を操って させていることだった。
「闘魔傀儡掌。闘気を最大限に放出させれば、人一人捻じ切ることとてた易い技だが、 本来は骸を意のままに操るためのものだ。必ずしも痛みを伴わせる技ではない」
ふっと、マァムの身体が落下し、床に投げ出された。嘘のように痛みの引いた身体は、しかし、 血の気が失せたように動かない。それが痛みの後遺症などではないことを、マァムは先の戦いを通して知っている。 この術にかかった身体がどうなるか。
果たして、自らの手が、意思と裏腹にすっと宙を掻くのを、マァムは絶望的な思いで見ていた。
「さぁ、踊れ。お前自身の手だ、何も恐ろしいことはあるまい?」
―――助けて、と声にすることさえ、人形と化した身体には叶わなかった。

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