「そっかぁ……お父さんはヒュンケルなんだ。綺麗な子が生まれるだろうね」
あの男が、虚空に向けて誰にともなく呟いている。珍しいことではないので、驚かない。多分、頭がおかしいのだろう。
無心に喋り続けるその背中に、忍び足で近づく。
「まさか。俺は感謝してるよ、レオナを守ってくれたんだから」
一歩、また一歩。黒衣に包まれた後姿に迫る。どうやら、攻撃を跳ね返すあの妙な闘気はつかっていないようだ。
何という好機だろう。神様、どうかご加護を。あの悪魔をこの手で葬らせて。
「どんなに待っててもらっても、俺は帰れないもん。ならせめて、レオナだけは幸せになってほしいよ。誰かを
好きになって、その人と一緒にじいちゃんとばあちゃんになって、たくさんの孫に囲まれて。本当は俺が
じいちゃんになりたかったけど……もう遅いね」
剣を構える。背中からでは心臓を仕留めることはできない。首をはねてやるのだ。無造作に伸びた黒髪から
のぞく、男にしては細い首をめがけ、白刃を振り下ろす。
「おやすみ、メルル」
やった……!!確かに、そう思ったのだ。かわせるはずがない。生身の身体で刀を受けて無事なはずもない。
なのに何故、この男は生きている?不老不死だなんて、あんなお伽噺が、真実だというのか。
折れた剣を手に、私は立ち尽くしていた。刀身の上半分は、どこに
行ったのか形もない。男の肌に触れた瞬間、消滅したのだと、気付くことさえできなかった。
「諦め悪いね。言ったろ?俺は死なないって。死にたくても、死ねないって」
振り返り、男は笑う。十字傷の刻まれた頬はわずかに緩んでいるが、目は少しも笑っていない。手が震える。
魔界のどこにだっていない。瘴気にも似た魔性を全身に漂わせている、こんな男は。差し出された手から
逃れたくて、じりじりと後ずさる。
「そんな物騒な物捨てて、こっちおいでよ」
無邪気に笑う、子どものような瞳。どうして、そんな風に笑えるの?私の家族を、みんな殺しておいて。私に、
あんな酷いことをしておいて。
「ねぇ……レオナ」
男は夢見るように、私の名とは似ても似つかぬ、その名を呼んだ。
私たちの神様は、殺された。目の前の、この男に。ずっと昔、石の中に封じ込められて、それでもまだ地上を
支配することを夢見ていた欲深い神様は、地上からやって来たこの男に、死闘の果てに滅ぼされたのだ。
そうして、命の尽きる最後の瞬間、神様は呪いをかけた。それは、地上の人間なら近づくだけで死に至る
魔性を、この男に纏わせる呪いだった。男は、地上に戻れなくなった。それがよほど辛かったのか、男は何度も
死のうと試みたらしいが、強大な魔性を備えてしまった身には叶わないことだった。当時の男を知る人の話では、
男はその頃とまったく外見が変わっていないらしい。何万年も生きてきた神様の、命を賭した呪いなら、人間一人
不老不死にしたところで、不思議はないかもしれない。だけど、私は信じていない。人間の年齢でいえば、男は
当時18歳、一年でさほど外見が変わらなくても、おかしくはない。人間の寿命どおり老いて死んでしまえ、
そうでなければ、私の残り数百年の人生は真っ暗闇だ。
話を戻そう。神様を失った私たちは、男に、新しい神様になってもらおうと考えた。しかし、いくら頼んでも男は首を縦に
振らなかった。それでは困るのだ。力が秩序の魔界で、最も強い者が神でなくなれば、秩序は瓦解してしまう。
思案の果てに、提案した者がいた。私の父さんだった。
『我らが神よ。地上が欲しくはございませんか?』
何を言っても反応を示さなかった男の表情が、そのときだけ、わずかに動いた。父さんは好機と思ったのか、
畳み掛けるように言葉を続けた。
『ヴェルザーは力及ばず叶いませんでしたが、あなた様ならおできになるでしょう。魔界・人界、ひいては
天界の神となることさえ。我ら魔族は、どこまでもあなた様に付き従いましょう』
支配欲。力を持つ者なら誰もが飼っている魔物を、男が持たぬはずはないと、父さんは考えたのだろう。
はたして、男は初めて、父の目を見据えた。父は満面の笑みをたたえ、男の前に跪いた。
『神よ…・・・!!』
それが、父さんの最後の言葉になった。
あっという間だった。父の首が鞠のように転がったのを皮切りに、数千・数万いたはずの、
選りすぐりの魔界の戦士たちが、次々と男の手にかかり、
死んでいった。さほど戦闘力があるわけではなく、高位の魔族だった父に連れられてきて、末席にいた私は、
逃げ惑う人々の波に揉まれ、走ることさえできなかった。躓いた私の上を、幾つもの足が駆けていく。
痛い、痛い。助けて、父さん、母さん、兄さん。男の間近にいた家族が、万に一つも生きているはずはないのに、
私はそう叫ばずにはいられなかった。
やがて、魔族の青い血で全身を染めた男が、近づいてきた。剣先からしたたる血の滴。いやにゆっくりとした足音。
もう一年近く前のことなのに、今でもはっきりと覚えている。そして、男が呟いた言葉も。
『……レオナ?』
私は、そんな名前ではない。でも、不思議と呼ばれたような気がして、恐る恐る、顔を上げた。神になりそこねた男は、
この世で最も脆弱な種族のはずの、人間の顔をしていた。それも、まるで母親を探し当てた
迷子の子どものような、ひどく幼い、泣き出しそうな顔。私は不覚にも、ほんの一瞬だけ男を愛しいと思ってしまった。
でも、その気持ちはすぐに消し飛んだ。聞いたこともない女の名で呼ばれ、その女の真似をさせられながら、
日毎夜毎犯される日々は、私の憎しみを際限なく肥大させた。
ほんの少しでも、「レオナ」らしくないことをすれば、痛めつけるような性交で仕置きをされる。
男のことは「ダイ君」と呼ぶこと。言葉遣いはさほど丁寧でなくてもよいが、王女らしい気品は忘れずに。
レオナは白が好きだったから、着る服はみんな白―――吐き気がする。
男の恋人なのだろう、レオナという名の女も、会ったことさえないが、憎くてたまらない。私に似ていると
いうから、金色の長い髪に、碧い瞳、白い肌を持った女だろう。その女さえいなければ、私がこんな酷い目に
遭うことはなかったのに。いいやそれよりも、私がその女に似てさえいなければ。人間に姿形の似た魔族として生まれたことを、
こんなにも呪う日が来るとは思わなかった。
何度逃げようとしたかしれない。死のうとしたことだって一度や二度ではない。けれど、神さえ打ち負かした男から、
逃れられようはずもなかった。
「レオナは、剣なんか持たない」
手首を捻り上げられ、ひっと悲鳴をあげる。刀の落ちる音が、洞穴いっぱいに響いた。
「俺を殺そうとなんかしない。どんな姿になろうと、俺が俺である限りはね」
歌うように、男は言葉を続ける。後ろから羽交い絞めにされ、首筋を舐られて、体中が粟立った。
「つまり、君はまた俺の言いつけを破ったわけだ。……いいけどね、覚えるまで、教えてあげるから」
体が震える。また始まるのだ。地獄のような、あの夜が。
「うあっ……あ……あ……!!」
熱い、熱い。業火のなかでのた打ち回る虫けらのように、私は男の手の中で跳ね、足掻いた。
「……いい?レオナ、君は俺をどう思ってるの?」
ふわりと、その場所に熱を感じ、私は怖気づく。闘気の熱で何度もその場所を何度も責められ、私は気が
狂いそうだった。指で数分責めるだけで達してしまうそこを、あぶられ、無理やりに絶頂へ追いやられるのだ。
この数時間で、何度いかされたのだろう。数を数えることもできなくなった私に、分かるわけがない。
これ以上されたら、本当に狂ってしまう。私は熱にうかされた頭で、必死に答えを探した。
「ダ、イくん、を……あたし……愛して、る……!」
「違うよ」
無感情な答えに、涙で潤んだ目を見開く。その場所に突きつけられた男の指に、熱が集まるのを感じ、私は重力系呪文で封じられた
手足を懸命にばたつかせた。まるで、罠にかかった愚かな獣のように。
「待っ……て……!もう、駄目えぇぇっ!!」
「レオナは、愛してるなんて言わない。『好き』って言うんだ。『キミのことが好き』って」
体の中、決して深くはないのに、体中の性感帯が全部集まったみたいなそこに、男の熱に招かれて、
全身の血が集中する。逃げられない。私はたまらずに、腰を浮かした。
「ああぁぁぁぁっ!!」
頭に、深い霧がかかっている。起きているのか眠っているのか、分からない。だからきっと、それを口にしたのは、
防衛本能だったのだろう。
「ダイ、くん……キミのこと、が、好き……」
「うん。俺も、レオナのこと好きだよ」
心底愛しげに、男は私に口付ける。少しも働かない頭で、私はそれでも確信した。
この男は狂っている。
「んうっ……んっ……」
唇を塞がれながら、私は犯されている。うっとうしいぐらいに濡れたそこは、ぐしゃぐしゃと、聞くに堪えないような
淫らな音をたてながら、男と交わっていた。
「レオナ……レオナ……」
たまに唇を放すと、男はまるでその言葉しか知らないように、その名を繰り返す。それが常だ。けれど、今夜だけは
違った。
「会いたい……会いたい、よ、レオナ……」
甘える幼児のように、男が私の首に取り縋る。それは今までにない行為だったけれど、半日にも及ぶ責め苦で
何も考えることのできなくなっていた私は、そのことに何かを感じたりはなかった。
「俺、恐いんだ……ときどき、君や、ポップや、先生や……みんなに会うためなら、何人殺しても
構わないと思えて。毒の塊になったこの身体で、地上に帰りたいと、今すぐにでも帰ろうと、本気で思うんだよ」
地上。そこに一体何があるっていうの。そんなに欲しいなら、父さんの言う通り、責め滅ぼしてものにしてしまえば
よかったじゃない。
「レオナ……ここにいて、繋ぎとめて……嘘でもいいから、俺を」
一人にしないで。
声なき声を、そのとき、私は聞いたような気がした。
END
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